待ちに待ったフライングサパのスカステ放送を見ました。
当時当たっていたチケットの公演は中止になり、
配信も平日で見られず仕舞いだったんですよね。
ちゃんと真剣に観るために部屋の電気も暗くして集中して見たんですけど、
面白かった!と手放しでいう感じではなく、すごく心に大きなものが残る舞台でした。
マイヒーロー好きなのでえ!?芹香さんがノア!?とか言ってテンション上がってましたけど
終わる頃にはスン…ってなってましたね。
宝塚でこれをやる意味みたいなことが当時は結構話題になってた気がするんですが、
今回の舞台は生きるために平然と人を殺したり、殺されたりが当たり前にあるんですよね。
そういう普段は覆い隠すものを全て削ぎ落として、生々しい表現を見せるにあたり、
宝塚の生み出す非現実感が必要だったんじゃないかな〜と私は思いました。
反面、劇場で見てたらめちゃくちゃ疲れそうだな…と思います。
舞台からの情報がたくさんあって、目と耳をフル活用する必要があるので
オペラグラスとか使ってたら話を追えなくなるんじゃないかという。
その分テレビ視聴が初見で良かったかもしれません。
もちろんあの当時あの瞬間だからこそ感じ取れるものって意味では
生観劇でしか得られなかったものがたくさんあると思うんですけど!
以下感想です!
サパとポルンカは日常どこにでも潜んでいる
通勤する時に制服を着た中学生を見てて思ったんですよね。
制服や校則は何のためにあるんだろう、と。
私たちはかつて決められた制服や校則に反発していなかっただろうか、
その存在意義がわからないとして、そんなもの無くても大丈夫だと。
私は制服がない学校に通っていたので、
その制服の違いが巻き起こす様々な問題について見てきました。
子供の洋服には想像以上に家の貧富の差が現れる。
その身からすれば制服があることはすごく羨ましく映ったんですよね。
けれどきっと、制服がある学校でずっと過ごしてきた子は、
もっと自由が欲しいと願ったに違いないわけです。実際そういう話もよく聞くし。
私たちにとって学校の制服や校則こそ、一番身近だったポルンカなんじゃないでしょうか。
あの日自由が欲しいと思った子はきっとミレナやオバクに共感するし、
私のようにその自由が招く争いを知っていて、
争うことや人間の変革を諦めてる人はブコビッチの体制に共感するんだと思います。
そんなことを思い出しながらサパを見てました。人は知らないことに可能性を見出します。
それを昔の地球の言葉で希望と呼ぶ。
人が希望に縋る時、途端に冷静さを欠いて他の可能性を考慮する力を失うように思うんですよね。
希望を勝手にゴールと決めてしまい
そこにたどり着いてそれから〜という部分は思考が急に抜け落ちる。
サパをめざしたミレナ。他のサパクレーターに居たならず者や信仰者や裏切り者。
実際全員ヘソを目指したその後については最初考えてませんでしたよね。
目的を達成した時点でゴールだと。
その後も生きていくのに行ってから考えようという発想。
こんなことがあったらどうしよう、あんなことが起きたら、と自分を防衛する本能に欠けているというか、
身を守る必要のないポルンカで暮らしてきた分、憎しみを知らないからかもしれません。
最終的にサパのへそにたどり着き、ミンナシステムを破壊したオバクは他の惑星への旅に出て、
イエレナやノアがポルンカに残り新しい体制を築いていくことになるわけなんですが、
普通だったらオバクがポルンカに残って
ミレナと力を合わせて平和に暮らすってオチになりそうなところを、
別の惑星で危険に晒されながら生きるっていうのが上田先生の人生観を感じます。
素数とはどんな数なのか
元々ふられているコード番号も02と30011で素数でしたが、
ミレナも307で素数ですし、オバクも089で素数。
偶然なのかもしれませんが、上田先生のことですからおそらく偶然ではないんだと思います。
わかりやすく素数素数ってセリフに入れてたのできっと気付いて欲しい点だったんだろうな。
他の人の番号は覚えてませんが、
多分反体制の人たちか、最終的にポルンカを出ていく人たちかのコードが
全部素数で統一されてるんだろうと思います。
素数とは1と自分自身以外に割れず、約数が2つだけの数のことですね。
1は約数が2つないので素数に含まれません。
ナンバー01のブコビッチに憎しみを抱いていた人たちのコードが
自分とブコビッチにしか割れない数ってなかなか因果というか、皮肉だな〜と思います。
上田久美子先生の作品に存在する人生観
上田先生の作品は結構人生観が一貫して現れているものが多いなと思います。
描きたいものが完全に「人生」についてなんだなっていうのがわかるというか。
fffの「生きることは苦しむことだ」から始まるナポレオンのあの一説とかまさに今回のオバクが出した結論に近いものですし、
桜嵐記の座談会でも「先祖代々何かを受け継ぐような昔と違い、個人主義の現代では限られた人生という時間の中で
どれだけ幸せをコレクションするかが目的になっているように思う」というようなことを仰っていました。
BADDYでは地球に住んで100年連続犯罪件数0の平和を享受する人々より、
圧倒的に悪であるBADDYが誰よりも人間味のある存在として描かれていました。
だからこそ50年真面目に生きてきたタルコフは人のために身を投げ出して死にますし、
憎しみを知っているイエレナとそのイエレナを愛するノアは残り、
人間の過ちを知ったオバクは旅立ったんだろうなと思います。
令和3年に触れるフライングサパについて
去年はまさにコロナの影響を受けて、ようやく再開した宙組最初の演目がサパということで
観られた方はかなり色々感じることがあっただろうなと思います。
比べて今はワクチン接種が進められていて、それに応じるか応じないかは個人次第という時期。
私も独居で普段誰とも話さないし、指先無くなるんじゃない?ってくらい消毒してるし、
ワクチンすると腕も痛いらしいし、ちょっと怖いな〜ってので、
正直未だ良いのかな〜という気持ちが5割。スムーズに予約取れるなら行こうかなが5割。
自粛に対する気持ちも今とかなり異なってましたよね。マスク警察って言葉も聞かなくなりました。
国の人全体がコロナという状況に慣れつつあるというか、飽きつつあるというか。
今の私たちの目の前には膨大な選択肢が転がっている状況のように思います。
それも昨年より自由度が増して。何をするにも責任をしっかりと持って、自分で決断しなきゃいけない。
今の状況でフライングサパを観ると、過去の歴史を観ているみたいな気持ちになるんですよね。不思議と。
きっとその過去って去年のことなんですけど。
監視社会的な自粛ムードに覆われた中、不安だけが目の前に転がっていて、明るい兆しが見えない状況。
去年観てたらオバクに共感したのかなあ。それともやはりブコビッチに共感したのかな。
今の私はやはりブコビッチに共感してしまうわけですが。。
フライングサパとは何だったのか
オバクが最終的にポルンカを旅立つプロジェクトにフライングサパと名をつけるわけですが、
どうして名前がフライングサパなんでしょうね。
ブコビッチの敷いたポルンカの体制からいかなる干渉も受けたくないって場合なら、
ブコビッチが開発した左手のデバイスを利用して宇宙旅行するのって矛盾が生じるような。
まあオバクはブコビッチのこと撃ってませんし、
そうなるとやはりブコビッチを「赦した」ってことなんでしょうか。
その場合サパの名前を冠する理由がよくわからないんですよね。
憎しみや過ちも抱えながら生きていくというならポルンカの名前を冠する方が自然に思うんですよ。
完全に憶測ですが、サパの中心にあったものは「ミンナ」なので、
その「ミンナ」を持って他の惑星に行くみたいな意図なんですかね。別に実際持っていくわけじゃないけど。
でもミンナに集約された記憶は戻ってるような描写だし、なんなんだ、なんでサパなんだ!?
結局良くも悪くも人が生きているということを実感するのって一体どんな時だろう、
人生というものにはどんな意味があるんだろう、
その答えを見つけるための物がフライングサパなんだろうと思います。とりあえずもう一回見よう。
人によって受け取るものが大きく変わりそうな作品ですよね。こういうのこそ語り合ったりしたい・・・。
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